時の住人
Window of time
〜時の窓〜
Table of MUGIKO
時の住人「むぎこの食卓」
2015年5月12日
新しく更新をしました〜!!!
長い間開店休業状態の感じだったので、少しだけ
気分を変えてページの雰囲気を変えてみました〜(^_^;)
中のページの内容は少しずつ加えていけたらと思っています。
気が向きましたら立ち寄って行ってもらえたらと思います (..;)
時の住人
Window of time
〜時の窓〜
Table of MUGIKO
時の住人「むぎこの食卓」
2015年5月12日
新しく更新をしました〜!!!
長い間開店休業状態の感じだったので、少しだけ
気分を変えてページの雰囲気を変えてみました〜(^_^;)
中のページの内容は少しずつ加えていけたらと思っています。
気が向きましたら立ち寄って行ってもらえたらと思います (..;)
時の住人
Window of time
〜時の窓〜
Table of MUGIKO
時の住人「むぎこの食卓」
2015年5月12日
新しく更新をしました〜!!!
長い間開店休業状態の感じだったので、少しだけ
気分を変えてページの雰囲気を変えてみました〜(^_^;)
中のページの内容は少しずつ加えていけたらと思っています。
気が向きましたら立ち寄って行ってもらえたらと思います (..;)
音楽・・・
あったら良いな・・・無くてはダメな物・・・
時々音のない世界も良い・・・そんな日々の生活の中で関わる音楽、
音の世界は人それぞれの描く映像の世界に連れて行ってくれる大切な物だと思います・・・
音楽を聴くことによって行ったことのない、行く事の出来ない宇宙までもが映像になるくらい、
一瞬のうちに心を飛ばすことの出来る物・・・そんな気がします。
例えば毎日聴きたいCD、時々聴くのに良いCD、失敗して買ってしまったCDなどなど、
このページは音楽に関する事をのせていけたらと思います。
音楽・・・
あったら良いな・・・無くてはダメな物・・・
時々音のない世界も良い・・・そんな日々の生活の中で関わる音楽、
音の世界は人それぞれの描く映像の世界に連れて行ってくれる大切な物だと思います・・・
音楽を聴くことによって行ったことのない、行く事の出来ない宇宙までもが映像になるくらい、
一瞬のうちに心を飛ばすことの出来る物・・・そんな気がします。
例えば毎日聴きたいCD、時々聴くのに良いCD、失敗して買ってしまったCDなどなど、
このページは音楽に関する事をのせていけたらと思います。
音楽・・・
あったら良いな・・・無くてはダメな物・・・
時々音のない世界も良い・・・そんな日々の生活の中で関わる音楽、
音の世界は人それぞれの描く映像の世界に連れて行ってくれる大切な物だと思います・・・
音楽を聴くことによって行ったことのない、行く事の出来ない宇宙までもが映像になるくらい、
一瞬のうちに心を飛ばすことの出来る物・・・そんな気がします。
例えば毎日聴きたいCD、時々聴くのに良いCD、失敗して買ってしまったCDなどなど、
このページは音楽に関する事をのせていけたらと思います。
「笑み」えみ・・・
笑みといえば、まず微笑みで、頬笑むが語源だそうで、今では、好ましい場合の笑い方ですが、昔は、失笑や苦笑、冷笑まで含めて、控えめな笑みは、全て微笑みと言ったそうで、片笑むは片方の頬に笑みを浮かべて、少し笑うこと、笑み笑みは、にこにこすること、そして満面に笑みをたたえることを、笑み栄えるというそうです。」
と書いてあり、笑う門には福来たる、を思い出しました、そして食する時、誰もが笑顔になっているような・・・
又そうありたいと思う気持ちで食に関するページを「笑み」にしました。
「笑み」えみ・・・
笑みといえば、まず微笑みで、頬笑むが語源だそうで、今では、好ましい場合の笑い方ですが、昔は、失笑や苦笑、冷笑まで含めて、控えめな笑みは、全て微笑みと言ったそうで、片笑むは片方の頬に笑みを浮かべて、少し笑うこと、笑み笑みは、にこにこすること、そして満面に笑みをたたえることを、笑み栄えるというそうです。」
と書いてあり、笑う門には福来たる、を思い出しました、そして食する時、誰もが笑顔になっているような・・・
又そうありたいと思う気持ちで食に関するページを「笑み」にしました。
「笑み」えみ・・・
笑みといえば、まず微笑みで、頬笑むが語源だそうで、今では、好ましい場合の笑い方ですが、昔は、失笑や苦笑、冷笑まで含めて、控えめな笑みは、全て微笑みと言ったそうで、片笑むは片方の頬に笑みを浮かべて、少し笑うこと、笑み笑みは、にこにこすること、そして満面に笑みをたたえることを、笑み栄えるというそうです。」
と書いてあり、笑う門には福来たる、を思い出しました、そして食する時、誰もが笑顔になっているような・・・
又そうありたいと思う気持ちで食に関するページを「笑み」にしました。
時の窓 久遠〜くおん〜
「花心」はなごころ・・・
今回HPに手を加えることになりアップしたい物への言葉を考えていました、
日本の言葉が好きで、でも普段あまり使われない言葉などが沢山有る中で心地の良い日本語を
探していて心に留まった(あえてこの言葉を使いました)本をみつけました、
その本の中から選んだ言葉をHPのページのタイトルにしてみました、
そして心に留まった本の著者「山下景子」さんの「美人のいろは」と言う本を手にしました。
ページのタイトルに使った言葉の意味を、ほんの少しだけ、ご紹介して書いてみたいと思います、
機会が有ればこの本もそうですが、他にも山下さんの本で自然の事を書いてある本なども有るので、
是非手に取ってみて下さい・・・
「花心」はなごころ・・・「花を咲かせようとする心を花心と言うそうです、
平安時代には移ろいやすい心という意味で使われていたと、未法思想が流行して、
何事もはかなんだ時代、花を見てもすぐに散ってしまうもの、はかないもの、
と悲観的に考え、やがて人々は自分なりの花を精一杯咲か
せようとする花の心に気づいたのかもしれません。」
と言うような内容が書かれています、心残りの無い一生懸命に生きぬくこと、
それ自体が花心なのかもしれないですね・・・
「久遠」くおん・・・
「この久遠は、もともと仏教用語で釈迦の永遠の教えをあらわす時の言葉、他の言葉と違うところは、
未来だけではなく、はてしなく遠い過去のことも指すというところ、時を超えた久遠の思い。」
と書かれています、時を超えて・・・心は前世も来世も予知は出来ないですよね・・・
時だけが全てを知っているのでしょうね・・・時の輪廻転生のように感じます・・・
< 時 >
私は「時」と言うことに関して色々と考えてしまいます、皆さんはどうですか?
あまりこだわらない方も多くいらっしゃると思いますが
今回のお話は私の幼少の頃のお話を書いてみようと思っています
私が5〜6歳の頃、お爺さんにつれられて隣町に住む叔母の家に行った日の事、
丁度毎年隣町のお祭りの日に叔母の家にお爺さんと行くことが恒例で
その日もお祭りの出店に連れて行ってもらい自分の背丈と同じくらいのピンクの熊を
お爺さんに買ってもらいドキドキしながら買ってもらった事を覚えています、
通常我が家では何かを買ってもらうということはあり得ない生活だったので
子供ながらに買ってもらっても良いのだろうか・・・と、感じていました、
でも後にも先にも買ってもらったのはこの一度きりでした(笑)
そんな熊をお祭りの帰りで混み合う電車の中お爺さんに手を引かれ、
もう片方の手で熊のぬいぐるみを抱えて夜も遅くうたた寝を立ちながら
45分も電車にゆられて帰ってきたせいなのか駅に着いたのは8時か9時頃でした、
私の育った町は隣町に比べて田舎で駅の脇には小さな池のような物があり
その池に蛍が飛んでいて今でもその光景が目に焼き付いています・・・
蛍は通常の生活の中で当たり前のように見かけていたので今思うと
育った町のあまりの変わりように涙が出て来ますね・・・
そんな蛍の飛んでいる池の脇をお爺さんに手を引かれ寝ぼけ眼で蛍の綺麗な光をぼ〜っと・・・
見ていたせいなのかその池でカッパが沢山水浴びをしているんです、
まるでプールサイドに腰掛けて足を水につけて何かを喋っている様子で・・・
そして水の中から泳いで水から上がってきたカッパと目が合ってしまい、そのカッパは驚き、
その後カッパのテレパシーのような感覚で水浴びをしていたカッパ全員がこちらを見て、
まるで私に「見たな〜」と言うような凄い形相でこちらに向かって来るような動きを見せた時に
私がびっくりしてお爺さんの手を引っ張ったようになりその変化にお爺さんは「どうした?」と
聞いてくれたので私は「カッパ・・・が・・・」と言うと
否定をすることなくお爺さんは急ぎ足で私を引っ張って家にたどり着きました、
私はその間怖くて後ろを振り向くことも出来ず
「だれ?あれ?カッパ?だれ?」と頭の中でぐるぐる回っていました、
大人になって有ることがきっかけでそのことを思い出し、
カッパはやはり緑系の色をしているものなのだと思いました。
そんな事があったせいなのか、時というものに深く興味を持ってしまったのかもしれません・・・
時折自分がそういう者を見てしまうことに関して子供の頃はみんなにも見えている事だと思っていました、
とはいえそれを説明して証明をしなさい、と言われると何も出来ないことだと
ただ、自分だけが解っていることで実際に存在しているかは勿論解らないことで、
私の勘違いと言われれば仕方がない事だと今でも思っていることですね・・・
我が家の家系では良くあることのようで家族は驚くことも無く普通の生活をしていますね〜(笑)
子供の頃親戚が集まって居るところで私の話になり「この子は長く生きられないかもしれないね・・・」と
親戚のお婆さんが言っていたことを思い出すことがあります、
昔は18歳までの誕生日までに何らかの者を見ていた場合にあまり長くは生きてはいれない、
と聞いていました、勿論18歳はとっくに過ぎて今まだこの世界に居るのですが(笑)
成人を超えたときにある人から時間の間(はざま)にそういう存在の者達が居ると聞き、
そしてそういう存在の方からこちらを常に見ているもので
相手からはこちらの世界の者から姿は見えていないと思っていて
それがたまたま見られていると解ったときに「見たな〜」と言うことで
見られてしまったことを消すために時間の間に引き込まれると
それで昔の人は、そういう者を見た者は長く生きられない・・・と言ったのだと思っています。
たまたま見てしまう・・・
時間の間との波長が合ってしまう事がおきると色々と見る・・・?
確かに子供の頃からそんな感じの子供だったのでどちらかというと
この世界と時間の間の真ん中に自分が居て同時に事が起きている・・・
といった感じで、自分では何もおかしな事では無かった、だから他の人には
見えない事だと知ってからとても恐がりな自分になりました。
時間・・・時・・・きっと自分の知らない世界の時間があり
何十にも折り重なっているのかも知れない・・・
その一つだけが見えている現状の世界なのかも知れないと考えると
怖さも有るけれど何だかそんな世界が有ることが当たり前のように思え楽しく感じます。
目には見えない時の間が左右する事に偶然と言うのは無い・・・?!
その中にも分けられている用に感じ本当の偶然と言う時間あわせがあって
偽の偶然が有るように感じますね〜
良く聞くことは偽者の次に現れる本者と言いますそれが人間同士だったり
チャンスのような事だったりと色々ですね・・・
不思議です、見えない時間の中ではきっといくつもの時間あわせが交差していたり・・・
だから色々な事故のような事がおきたり
又森の中に入っていると誰かに見られているような感覚になったり
実は自分には見えないけれどきっと自分のすぐ側に見えない者が居るのかも・・・
そして時々いたずらなんかをしていたり、助けてくれたり、見守ってくれたり・・・
そんなことを考えると日本の昔からの風神雷神様や七福神様
妖怪達そしてサンタクロースが居ても可笑しくはないよね(笑)
きっと大昔から見た人がいてその形が龍の絵だったり色々な妖怪の絵だったり
実は想像したのではなく見えた人から話を聞いて描いた絵もあったりして・・・?
そう考えると時間の中での連絡網はテレパシーだったのでは・・・(笑)
テレパシーは有ると信じていますね〜
だから昔から「念」という言葉があるのかもと思います。
良い事を念じる、悪いことを念じる・・・
念じた事が結果が出た事に対して言う言葉が「願い事は叶う」と言うことかも・・・
それにはやはり時、時間が関わっているようにテレパシーとして
相手に伝える事も時間の中を飛ばす事で相手に伝わる
誰かのことをふと思い出すとき相手のテレパシーが届いているのかもね(笑)
昔の人は「壁に耳あり障子に目あり」と言い
テレパシーのような事を意味しているのかな〜と思ってしまいますね、
私が怖がりなのを良いことに子供の頃兄方が襖の隙間から目だけを出したり
障子に穴を開け目だけを出して「障子に目ありだぞ〜〜う〜〜ぅぅ〜」と言い
訳もなく私は脅かされていました(アホな兄弟です)
結局穴を開けてしまった後始末の紙の張り替えは私と姉でいつもしていました(笑)
普段の生活の中四六時中そんな事を考えている訳では無いのですが
何かが起きた時身の回りのことだけではなくテレビのニュースを見て災害や事故など何故・・・?
時間あわせ・・・?
ギリギリのタイミングで大事にならなかった人時間に有ってしまった人
その時そこへ行くはずだったのが行かなくなった訳・・・
自分が何故そうならなかったのだと考えるとき見えない何かの力が左右したと感じること、
大昔はみんな感じていた第六感のようなものもそれが時間の流れに立ち向かった結果
徐々に欠落していっているのかもしれませんね・・・
時間を大事にすること時と向き合う勇気
みんなにあわせて急ぎ時間を追わなくても良いと思える心
そんな心を取り戻したらきっと時の扉がどこにあって生き物としての
「時の住人」になれるのかもしれませんね・・・
時の窓 久遠〜くおん〜
「花心」はなごころ・・・
今回HPに手を加えることになりアップしたい物への言葉を考えていました、
日本の言葉が好きで、でも普段あまり使われない言葉などが沢山有る中で心地の良い日本語を
探していて心に留まった(あえてこの言葉を使いました)本をみつけました、
その本の中から選んだ言葉をHPのページのタイトルにしてみました、
そして心に留まった本の著者「山下景子」さんの「美人のいろは」と言う本を手にしました。
ページのタイトルに使った言葉の意味を、ほんの少しだけ、ご紹介して書いてみたいと思います、
機会が有ればこの本もそうですが、他にも山下さんの本で自然の事を書いてある本なども有るので、
是非手に取ってみて下さい・・・
「花心」はなごころ・・・「花を咲かせようとする心を花心と言うそうです、
平安時代には移ろいやすい心という意味で使われていたと、未法思想が流行して、
何事もはかなんだ時代、花を見てもすぐに散ってしまうもの、はかないもの、
と悲観的に考え、やがて人々は自分なりの花を精一杯咲か
せようとする花の心に気づいたのかもしれません。」
と言うような内容が書かれています、心残りの無い一生懸命に生きぬくこと、
それ自体が花心なのかもしれないですね・・・
「久遠」くおん・・・
「この久遠は、もともと仏教用語で釈迦の永遠の教えをあらわす時の言葉、他の言葉と違うところは、
未来だけではなく、はてしなく遠い過去のことも指すというところ、時を超えた久遠の思い。」
と書かれています、時を超えて・・・心は前世も来世も予知は出来ないですよね・・・
時だけが全てを知っているのでしょうね・・・時の輪廻転生のように感じます・・・
< 時 >
私は「時」と言うことに関して色々と考えてしまいます、皆さんはどうですか?
あまりこだわらない方も多くいらっしゃると思いますが
今回のお話は私の幼少の頃のお話を書いてみようと思っています
私が5〜6歳の頃、お爺さんにつれられて隣町に住む叔母の家に行った日の事、
丁度毎年隣町のお祭りの日に叔母の家にお爺さんと行くことが恒例で
その日もお祭りの出店に連れて行ってもらい自分の背丈と同じくらいのピンクの熊を
お爺さんに買ってもらいドキドキしながら買ってもらった事を覚えています、
通常我が家では何かを買ってもらうということはあり得ない生活だったので
子供ながらに買ってもらっても良いのだろうか・・・と、感じていました、
でも後にも先にも買ってもらったのはこの一度きりでした(笑)
そんな熊をお祭りの帰りで混み合う電車の中お爺さんに手を引かれ、
もう片方の手で熊のぬいぐるみを抱えて夜も遅くうたた寝を立ちながら
45分も電車にゆられて帰ってきたせいなのか駅に着いたのは8時か9時頃でした、
私の育った町は隣町に比べて田舎で駅の脇には小さな池のような物があり
その池に蛍が飛んでいて今でもその光景が目に焼き付いています・・・
蛍は通常の生活の中で当たり前のように見かけていたので今思うと
育った町のあまりの変わりように涙が出て来ますね・・・
そんな蛍の飛んでいる池の脇をお爺さんに手を引かれ寝ぼけ眼で蛍の綺麗な光をぼ〜っと・・・
見ていたせいなのかその池でカッパが沢山水浴びをしているんです、
まるでプールサイドに腰掛けて足を水につけて何かを喋っている様子で・・・
そして水の中から泳いで水から上がってきたカッパと目が合ってしまい、そのカッパは驚き、
その後カッパのテレパシーのような感覚で水浴びをしていたカッパ全員がこちらを見て、
まるで私に「見たな〜」と言うような凄い形相でこちらに向かって来るような動きを見せた時に
私がびっくりしてお爺さんの手を引っ張ったようになりその変化にお爺さんは「どうした?」と
聞いてくれたので私は「カッパ・・・が・・・」と言うと
否定をすることなくお爺さんは急ぎ足で私を引っ張って家にたどり着きました、
私はその間怖くて後ろを振り向くことも出来ず
「だれ?あれ?カッパ?だれ?」と頭の中でぐるぐる回っていました、
大人になって有ることがきっかけでそのことを思い出し、
カッパはやはり緑系の色をしているものなのだと思いました。
そんな事があったせいなのか、時というものに深く興味を持ってしまったのかもしれません・・・
時折自分がそういう者を見てしまうことに関して子供の頃はみんなにも見えている事だと思っていました、
とはいえそれを説明して証明をしなさい、と言われると何も出来ないことだと
ただ、自分だけが解っていることで実際に存在しているかは勿論解らないことで、
私の勘違いと言われれば仕方がない事だと今でも思っていることですね・・・
我が家の家系では良くあることのようで家族は驚くことも無く普通の生活をしていますね〜(笑)
子供の頃親戚が集まって居るところで私の話になり「この子は長く生きられないかもしれないね・・・」と
親戚のお婆さんが言っていたことを思い出すことがあります、
昔は18歳までの誕生日までに何らかの者を見ていた場合にあまり長くは生きてはいれない、
と聞いていました、勿論18歳はとっくに過ぎて今まだこの世界に居るのですが(笑)
成人を超えたときにある人から時間の間(はざま)にそういう存在の者達が居ると聞き、
そしてそういう存在の方からこちらを常に見ているもので
相手からはこちらの世界の者から姿は見えていないと思っていて
それがたまたま見られていると解ったときに「見たな〜」と言うことで
見られてしまったことを消すために時間の間に引き込まれると
それで昔の人は、そういう者を見た者は長く生きられない・・・と言ったのだと思っています。
たまたま見てしまう・・・
時間の間との波長が合ってしまう事がおきると色々と見る・・・?
確かに子供の頃からそんな感じの子供だったのでどちらかというと
この世界と時間の間の真ん中に自分が居て同時に事が起きている・・・
といった感じで、自分では何もおかしな事では無かった、だから他の人には
見えない事だと知ってからとても恐がりな自分になりました。
時間・・・時・・・きっと自分の知らない世界の時間があり
何十にも折り重なっているのかも知れない・・・
その一つだけが見えている現状の世界なのかも知れないと考えると
怖さも有るけれど何だかそんな世界が有ることが当たり前のように思え楽しく感じます。
目には見えない時の間が左右する事に偶然と言うのは無い・・・?!
その中にも分けられている用に感じ本当の偶然と言う時間あわせがあって
偽の偶然が有るように感じますね〜
良く聞くことは偽者の次に現れる本者と言いますそれが人間同士だったり
チャンスのような事だったりと色々ですね・・・
不思議です、見えない時間の中ではきっといくつもの時間あわせが交差していたり・・・
だから色々な事故のような事がおきたり
又森の中に入っていると誰かに見られているような感覚になったり
実は自分には見えないけれどきっと自分のすぐ側に見えない者が居るのかも・・・
そして時々いたずらなんかをしていたり、助けてくれたり、見守ってくれたり・・・
そんなことを考えると日本の昔からの風神雷神様や七福神様
妖怪達そしてサンタクロースが居ても可笑しくはないよね(笑)
きっと大昔から見た人がいてその形が龍の絵だったり色々な妖怪の絵だったり
実は想像したのではなく見えた人から話を聞いて描いた絵もあったりして・・・?
そう考えると時間の中での連絡網はテレパシーだったのでは・・・(笑)
テレパシーは有ると信じていますね〜
だから昔から「念」という言葉があるのかもと思います。
良い事を念じる、悪いことを念じる・・・
念じた事が結果が出た事に対して言う言葉が「願い事は叶う」と言うことかも・・・
それにはやはり時、時間が関わっているようにテレパシーとして
相手に伝える事も時間の中を飛ばす事で相手に伝わる
誰かのことをふと思い出すとき相手のテレパシーが届いているのかもね(笑)
昔の人は「壁に耳あり障子に目あり」と言い
テレパシーのような事を意味しているのかな〜と思ってしまいますね、
私が怖がりなのを良いことに子供の頃兄方が襖の隙間から目だけを出したり
障子に穴を開け目だけを出して「障子に目ありだぞ〜〜う〜〜ぅぅ〜」と言い
訳もなく私は脅かされていました(アホな兄弟です)
結局穴を開けてしまった後始末の紙の張り替えは私と姉でいつもしていました(笑)
普段の生活の中四六時中そんな事を考えている訳では無いのですが
何かが起きた時身の回りのことだけではなくテレビのニュースを見て災害や事故など何故・・・?
時間あわせ・・・?
ギリギリのタイミングで大事にならなかった人時間に有ってしまった人
その時そこへ行くはずだったのが行かなくなった訳・・・
自分が何故そうならなかったのだと考えるとき見えない何かの力が左右したと感じること、
大昔はみんな感じていた第六感のようなものもそれが時間の流れに立ち向かった結果
徐々に欠落していっているのかもしれませんね・・・
時間を大事にすること時と向き合う勇気
みんなにあわせて急ぎ時間を追わなくても良いと思える心
そんな心を取り戻したらきっと時の扉がどこにあって生き物としての
「時の住人」になれるのかもしれませんね・・・
時の窓 久遠〜くおん〜
「花心」はなごころ・・・
今回HPに手を加えることになりアップしたい物への言葉を考えていました、
日本の言葉が好きで、でも普段あまり使われない言葉などが沢山有る中で心地の良い日本語を
探していて心に留まった(あえてこの言葉を使いました)本をみつけました、
その本の中から選んだ言葉をHPのページのタイトルにしてみました、
そして心に留まった本の著者「山下景子」さんの「美人のいろは」と言う本を手にしました。
ページのタイトルに使った言葉の意味を、ほんの少しだけ、ご紹介して書いてみたいと思います、
機会が有ればこの本もそうですが、他にも山下さんの本で自然の事を書いてある本なども有るので、
是非手に取ってみて下さい・・・
「花心」はなごころ・・・「花を咲かせようとする心を花心と言うそうです、
平安時代には移ろいやすい心という意味で使われていたと、未法思想が流行して、
何事もはかなんだ時代、花を見てもすぐに散ってしまうもの、はかないもの、
と悲観的に考え、やがて人々は自分なりの花を精一杯咲か
せようとする花の心に気づいたのかもしれません。」
と言うような内容が書かれています、心残りの無い一生懸命に生きぬくこと、
それ自体が花心なのかもしれないですね・・・
「久遠」くおん・・・
「この久遠は、もともと仏教用語で釈迦の永遠の教えをあらわす時の言葉、他の言葉と違うところは、
未来だけではなく、はてしなく遠い過去のことも指すというところ、時を超えた久遠の思い。」
と書かれています、時を超えて・・・心は前世も来世も予知は出来ないですよね・・・
時だけが全てを知っているのでしょうね・・・時の輪廻転生のように感じます・・・
< 時 >
私は「時」と言うことに関して色々と考えてしまいます、皆さんはどうですか?
あまりこだわらない方も多くいらっしゃると思いますが
今回のお話は私の幼少の頃のお話を書いてみようと思っています
私が5〜6歳の頃、お爺さんにつれられて隣町に住む叔母の家に行った日の事、
丁度毎年隣町のお祭りの日に叔母の家にお爺さんと行くことが恒例で
その日もお祭りの出店に連れて行ってもらい自分の背丈と同じくらいのピンクの熊を
お爺さんに買ってもらいドキドキしながら買ってもらった事を覚えています、
通常我が家では何かを買ってもらうということはあり得ない生活だったので
子供ながらに買ってもらっても良いのだろうか・・・と、感じていました、
でも後にも先にも買ってもらったのはこの一度きりでした(笑)
そんな熊をお祭りの帰りで混み合う電車の中お爺さんに手を引かれ、
もう片方の手で熊のぬいぐるみを抱えて夜も遅くうたた寝を立ちながら
45分も電車にゆられて帰ってきたせいなのか駅に着いたのは8時か9時頃でした、
私の育った町は隣町に比べて田舎で駅の脇には小さな池のような物があり
その池に蛍が飛んでいて今でもその光景が目に焼き付いています・・・
蛍は通常の生活の中で当たり前のように見かけていたので今思うと
育った町のあまりの変わりように涙が出て来ますね・・・
そんな蛍の飛んでいる池の脇をお爺さんに手を引かれ寝ぼけ眼で蛍の綺麗な光をぼ〜っと・・・
見ていたせいなのかその池でカッパが沢山水浴びをしているんです、
まるでプールサイドに腰掛けて足を水につけて何かを喋っている様子で・・・
そして水の中から泳いで水から上がってきたカッパと目が合ってしまい、そのカッパは驚き、
その後カッパのテレパシーのような感覚で水浴びをしていたカッパ全員がこちらを見て、
まるで私に「見たな〜」と言うような凄い形相でこちらに向かって来るような動きを見せた時に
私がびっくりしてお爺さんの手を引っ張ったようになりその変化にお爺さんは「どうした?」と
聞いてくれたので私は「カッパ・・・が・・・」と言うと
否定をすることなくお爺さんは急ぎ足で私を引っ張って家にたどり着きました、
私はその間怖くて後ろを振り向くことも出来ず
「だれ?あれ?カッパ?だれ?」と頭の中でぐるぐる回っていました、
大人になって有ることがきっかけでそのことを思い出し、
カッパはやはり緑系の色をしているものなのだと思いました。
そんな事があったせいなのか、時というものに深く興味を持ってしまったのかもしれません・・・
時折自分がそういう者を見てしまうことに関して子供の頃はみんなにも見えている事だと思っていました、
とはいえそれを説明して証明をしなさい、と言われると何も出来ないことだと
ただ、自分だけが解っていることで実際に存在しているかは勿論解らないことで、
私の勘違いと言われれば仕方がない事だと今でも思っていることですね・・・
我が家の家系では良くあることのようで家族は驚くことも無く普通の生活をしていますね〜(笑)
子供の頃親戚が集まって居るところで私の話になり「この子は長く生きられないかもしれないね・・・」と
親戚のお婆さんが言っていたことを思い出すことがあります、
昔は18歳までの誕生日までに何らかの者を見ていた場合にあまり長くは生きてはいれない、
と聞いていました、勿論18歳はとっくに過ぎて今まだこの世界に居るのですが(笑)
成人を超えたときにある人から時間の間(はざま)にそういう存在の者達が居ると聞き、
そしてそういう存在の方からこちらを常に見ているもので
相手からはこちらの世界の者から姿は見えていないと思っていて
それがたまたま見られていると解ったときに「見たな〜」と言うことで
見られてしまったことを消すために時間の間に引き込まれると
それで昔の人は、そういう者を見た者は長く生きられない・・・と言ったのだと思っています。
たまたま見てしまう・・・
時間の間との波長が合ってしまう事がおきると色々と見る・・・?
確かに子供の頃からそんな感じの子供だったのでどちらかというと
この世界と時間の間の真ん中に自分が居て同時に事が起きている・・・
といった感じで、自分では何もおかしな事では無かった、だから他の人には
見えない事だと知ってからとても恐がりな自分になりました。
時間・・・時・・・きっと自分の知らない世界の時間があり
何十にも折り重なっているのかも知れない・・・
その一つだけが見えている現状の世界なのかも知れないと考えると
怖さも有るけれど何だかそんな世界が有ることが当たり前のように思え楽しく感じます。
目には見えない時の間が左右する事に偶然と言うのは無い・・・?!
その中にも分けられている用に感じ本当の偶然と言う時間あわせがあって
偽の偶然が有るように感じますね〜
良く聞くことは偽者の次に現れる本者と言いますそれが人間同士だったり
チャンスのような事だったりと色々ですね・・・
不思議です、見えない時間の中ではきっといくつもの時間あわせが交差していたり・・・
だから色々な事故のような事がおきたり
又森の中に入っていると誰かに見られているような感覚になったり
実は自分には見えないけれどきっと自分のすぐ側に見えない者が居るのかも・・・
そして時々いたずらなんかをしていたり、助けてくれたり、見守ってくれたり・・・
そんなことを考えると日本の昔からの風神雷神様や七福神様
妖怪達そしてサンタクロースが居ても可笑しくはないよね(笑)
きっと大昔から見た人がいてその形が龍の絵だったり色々な妖怪の絵だったり
実は想像したのではなく見えた人から話を聞いて描いた絵もあったりして・・・?
そう考えると時間の中での連絡網はテレパシーだったのでは・・・(笑)
テレパシーは有ると信じていますね〜
だから昔から「念」という言葉があるのかもと思います。
良い事を念じる、悪いことを念じる・・・
念じた事が結果が出た事に対して言う言葉が「願い事は叶う」と言うことかも・・・
それにはやはり時、時間が関わっているようにテレパシーとして
相手に伝える事も時間の中を飛ばす事で相手に伝わる
誰かのことをふと思い出すとき相手のテレパシーが届いているのかもね(笑)
昔の人は「壁に耳あり障子に目あり」と言い
テレパシーのような事を意味しているのかな〜と思ってしまいますね、
私が怖がりなのを良いことに子供の頃兄方が襖の隙間から目だけを出したり
障子に穴を開け目だけを出して「障子に目ありだぞ〜〜う〜〜ぅぅ〜」と言い
訳もなく私は脅かされていました(アホな兄弟です)
結局穴を開けてしまった後始末の紙の張り替えは私と姉でいつもしていました(笑)
普段の生活の中四六時中そんな事を考えている訳では無いのですが
何かが起きた時身の回りのことだけではなくテレビのニュースを見て災害や事故など何故・・・?
時間あわせ・・・?
ギリギリのタイミングで大事にならなかった人時間に有ってしまった人
その時そこへ行くはずだったのが行かなくなった訳・・・
自分が何故そうならなかったのだと考えるとき見えない何かの力が左右したと感じること、
大昔はみんな感じていた第六感のようなものもそれが時間の流れに立ち向かった結果
徐々に欠落していっているのかもしれませんね・・・
時間を大事にすること時と向き合う勇気
みんなにあわせて急ぎ時間を追わなくても良いと思える心
そんな心を取り戻したらきっと時の扉がどこにあって生き物としての
「時の住人」になれるのかもしれませんね・・・
「客人」まろうど・・・
「まろうどは、古くは、まろうと、稀人(まれひと)が変化したもので、昔の人は訪れてくれた人を、めったにない人、珍しい人、といって歓迎し来客の事をこのように呼ぶようになり、又珍しい、は、愛ず(めず)、愛すると言う言葉から派生し、愛するに値するという意味で、やがて、すばらしい、数少ないという意味に広がっていった言葉で、沢山の選択肢の中から我が家を訪ねてくれたお客様は、稀ではなくても、ありがたい、愛すべき人・・・」
と書いてあり、子供の頃我が家にお客様が来たときには粗相をしないようにと緊張しつつも遠いところからわざわざ来て頂き有り難く、そして嬉しい気持ちで時を過ごした事、今でもその気持ちには変わりが無く、お客様を迎える側の気持ちが本当に表現されている言葉と感じ心を読まれたような・・・そんな思いがしました。
「客人」まろうど・・・
「まろうどは、古くは、まろうと、稀人(まれひと)が変化したもので、昔の人は訪れてくれた人を、めったにない人、珍しい人、といって歓迎し来客の事をこのように呼ぶようになり、又珍しい、は、愛ず(めず)、愛すると言う言葉から派生し、愛するに値するという意味で、やがて、すばらしい、数少ないという意味に広がっていった言葉で、沢山の選択肢の中から我が家を訪ねてくれたお客様は、稀ではなくても、ありがたい、愛すべき人・・・」
と書いてあり、子供の頃我が家にお客様が来たときには粗相をしないようにと緊張しつつも遠いところからわざわざ来て頂き有り難く、そして嬉しい気持ちで時を過ごした事、今でもその気持ちには変わりが無く、お客様を迎える側の気持ちが本当に表現されている言葉と感じ心を読まれたような・・・そんな思いがしました。
「客人」まろうど・・・
「まろうどは、古くは、まろうと、稀人(まれひと)が変化したもので、昔の人は訪れてくれた人を、めったにない人、珍しい人、といって歓迎し来客の事をこのように呼ぶようになり、又珍しい、は、愛ず(めず)、愛すると言う言葉から派生し、愛するに値するという意味で、やがて、すばらしい、数少ないという意味に広がっていった言葉で、沢山の選択肢の中から我が家を訪ねてくれたお客様は、稀ではなくても、ありがたい、愛すべき人・・・」
と書いてあり、子供の頃我が家にお客様が来たときには粗相をしないようにと緊張しつつも遠いところからわざわざ来て頂き有り難く、そして嬉しい気持ちで時を過ごした事、今でもその気持ちには変わりが無く、お客様を迎える側の気持ちが本当に表現されている言葉と感じ心を読まれたような・・・そんな思いがしました。